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虫の知らせに救われる

夏休み明け、、、じいが懇意にしている整形外科に通院しようとした矢先、、、スタッフにコロナの陽性者が出たということで、28日まで休診との情報が入ってきました。

その整形外科、実はわたしが先月半ばまで交通事故による頸椎捻挫で通院していたところでした。

わたしにとっては、じいと馴染みの先生だったこともあり、もう少し通院してもよかったのですが、そこはリハビリの患者さんが連日訪れ、待合室から人が溢れるくらいの混雑ぶりだったので、勝手に自己判断で通院を終了していました。

普段はそこまで神経質にはならないのですが、その時に限ってなぜか、「この混み具合だと、この中にコロナ陽性者がいてもおかしくないよな」と思ったからでした。

しかしもしあのままなあなあで通院を続けていたとしたらと思うと、ちょっとひやっとしました。

幸いじいは、別な通院先を見つけることが出来て今日からそこに通うことになりました。

こうやって考えてみると先月の交通事故以降、いろいろと不幸中の幸いが続いているような気がします。

ただそれもきっと、自分の内なる声に耳を傾けられる心の余裕がある状態だったからともいえます。そこに、じいの知り合いの先生だからとか、変な忖度を働かせてしまっていたとしたら、そんな判断をすることはなかった筈です。

そしてもしわたしがコロナの陽性者になってしまったとしたら、その後の全ての予定が全てキャンセルになってしまったかもしれず、そして、交通事故に遭ったじいの通院もままならなかったかもしれないのです。

コロナに罹患した人のインタビューなどをみると、「まさか自分が罹るとは思っていなかった」というフレーズをよく耳にします。個人的には、基本的な感染症対策と、ワクチン接種をしていれば、今はそこまでおそれる必要はないと思っていますし、罹った人全てが迂闊だったとも思いません。

しかしコロナ罹患に限らず、誰しも少し気が緩んで油断してしまう瞬間があって、そこで思わぬトラブルに巻き込まれてしまう可能性があるんですよね。

ただどんなこともネガティブに考えて備えるというより、その時その時で柔軟に判断すればいいことだと思います。

いずれにせよ、これからの時代、いつ何が起きるか分かりませんから、その時に右往左往しないように、まずは自分の頭で考える習慣をつけていくのがいいのかなと思います。

そしてそんなふうに思うようになったのも、ガーデニングをやっているおかげかもしれません。

今、自分で初めてメロンを育てて毎日お世話していますが、少し前摘果のタイミングがありました。本当は両方とも育てたいけれど、どちらかを選ばなければ大きな実を育てることは出来ません。そしてその判断をするのは、他でもない自分自身なんです。

植物を育てていると、自然と、人は知らず知らずに何かを選んでいることに気づかされます。

そしてその選択をポジティブな方向に進めるか否かも全て自分次第なのかと思うのです。


ところで、先日ある友人と話していた時、どこかのサイトで見かけたような不幸話を、さも自分のことのように語っている人がいるなんてことを聞きました。

日本人って、昔から判官びいきが好きですよね。判官びいきとは、、、弱者や薄幸の者に同情し、味方したり応援したりすることですが、それにつけこむかのように、事あるごとに自分の過去の不幸話をする人がいます。最初のうちは気の毒と思って聞いてしまいますが、だんだんとそれにもうんざりしてきます。

そして格差社会が顕著になっている現在、これまた偏った清貧思想が幅をきかせ始めているような。

金持ちの心は汚くて、貧しい人の心はきれいだとか、、、それは、そう思いたい人たちの歪んだ幻想にすぎません。

そしてここでひとつはっきり言えることがあるとしたら、誰かを羨んだり、僻んだりしているうちは、いま自分にある幸せに気づくことは出来ないということです。

いまそこに咲いている花は美しいけれど、その美しさを疑う人は誰もいないように、いま目に映ることのありのままを受け止め、肯定出来るような自分になりたいです。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

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