多様性とわがまま放題
最近の社会の風潮として、しばしば「多様性」という言葉が使われているが、人によってはそれが行き過ぎていると感じることが多々ある。
わたし自身は、「個人を尊重する事」はとても大切な事だと思っているが、それをはき違えた「わがまま放題」を許してはいけないと思っている。

そして、「不平等であること」は良くないが、「悪平等」はもっと良くない。つまり、「差別」はいけないが「区別」はしないといけない。なんでも一緒という訳にはいかない。一般的に男性のほうが力は強いし、女性しか子供を宿し出産する事は出来ないように、それは厳然たる「事実」だから。
だからと言って、男だからとか、女だからとかいって〇〇しなくてはいけないというものでもない。それぞれの得意分野、得手不得手、好き嫌いなど色々な切り口がある。金子みすゞではないが、「みんな違ってみんないい」のだ。
そして、今の時代はどんな”マイノリティー”の人でも顔を出さずにインターネットを通じて意見を発信する事が出来る。昔だったら誰も聞いてくれない、相手にしてくれないような事でも。
なので時に、顔の見えないコミュニティの中では、”少数か多数かという区別”もなく、”どこかに偏っているかいないか”の判別もせず、すべての意見を同列に並べて、それぞれを尊重してしまう風潮が蔓延ることがある。
そんな流れの中、ある「わがまま放題」の自己中心的な意見に対しても「自分はマイノリティーの意見も聞ける、広い視野を持った寛容な人間なんだ‼︎」というような「誰にも嫌われたくない、いい人でありたい」という考えで賛同する人も出てくる。それがエスカレートすると、「ひとりの偏った意見を持つ声の大きい人」に盲目的に心酔し、その人に少しでも異を唱えようものなら徹底的に排除しようとする集団が生まれる。もうこれは、「カルト宗教の教祖とその信者たち」と何ら変わらない構図だ。
また企業にしてもTVのコメンテーターにしても、何かあると、すぐに炎上するので、怖がって意見を述べなくなり、主張もしなくなる。
「何が正解か、もっとこうありたい」より、「どう言えば叩かれないか、より多くの共感を得られるのか」そんなことにばかりに腐心した、毒にも薬にもならないコメントばかりが蔓延っている。
また、そんな時代のせいなのか…モラルを無視する他人に対して注意のひとつも出来なくなっている。教師も生徒を叱れずに、親の顔色ばかり伺っている。わたしは、「対立」は悪いことではないし、むしろ「本音」を言わない事の方が悪いと思っている。
だからわたしは、時には信念をもって、己が正しいと思うことを貫くのも大切かと思う。その「正しさ」は360度どの方向から見てもみんなが納得いく物ではないかもしれないが、それでも”自分なりの矜持を持って”生きていくべきなんじゃないかと思う。
この世には「正解のないこと」が山ほどあるが、それでもわれわれ人間は、「自分なりの正解」求めながら生きている。
少し視野を広げて、少し視座を高めて、少しだけ高い次元から最適解を求めていけば、きっといつの日にか…他人のことはどうでもいい、自分さえ良ければいいという様な「わがまま放題」も”駆逐”されると信じている。
だからこそ今わたしは、〇〇さんの嘘をひとつひとつ炙りだそうとしているのだ。
TVドラマのように、「これはフィクションです」などと謳っているなら許容できることでも、自らの発言をあたかも”絶対的”と言わんばかりの態度で発信することは何らかの”悪意”ととられても仕方がないことだろう。
さて、今を遡ることひと月前のこと。ブロ友ねぇやんさんが、自らのブログの更新をストップした。その時の言葉をわたしはずっと心の中に留めている。
もう一人前の半分も食べられないままちゃんだけど
美味しいもの、食べようね。
そして〇〇さん、おそらく帰国後ねぇやんさんのブログにも目を通した筈であるが…
人生初、そして多分最後になるであろう空港ラウンジで過ごす搭乗待ち、食べ飲み放題祭りでちょいと張り切りお腹いっぱいで日本を離れる。
中略
そしてビールをぐびびっと飲み干して夢の中へと沈んだのであった。アカン、まだ目的地についてもいないのに既に食べ過ぎだ。
などといった感じで、その後もいく先々での”腹壊しエピ”を連発中である。勿論、〇〇さんと彼女は直接的に関係ない立場なのかもしれないが、しかし〇〇さんが以前から彼女の記事に「いいね」を入れていることから見ても、今のままちゃんの状況を知らない筈はないだろう。
これが〇〇さんの平常運転と言えばそれまでなんだけど、ねぇやんさん、そしてそんな素晴らしいお嬢さんを育てたままちゃん贔屓なわたしからすると、「凄く酷なことを見せつけてくれちゃってるな」と思ってしまう。
そして、おそらくねぇやんさんのブロ友さんたちの中にも少なからず〇〇さんの読者が居たりするので、その方々の心境は如何許りなんだろうかと想像してしまったり。
この世には、たとえ罪に問えないことであっても、不条理なことはたくさん存在する。がそんな罪に問えないグレーゾーンな行為を繰り返している人を見ると少なからず胸が痛くなる。そして自分は人としてどうあるべきかと自問自答してしまうのである。
言葉ではなく人はその行為のみが雄弁にその人を語るのだ。
西行の歌
先日のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で、意知(田沼)が、誰袖に送ったあの狂歌が再び登場した。
西行は 花の下にて 死なむとか 雲助袖の 下にて死にたし
「あの西行は花の下で死にたいと歌った。私雲助(意知)は、誰袖の下で死にたい」
引用された西行のあまりに名高い作品が二重映しになり切なくなった。
願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃
「出来ることなら、生涯愛してやまなかった桜花舞い落ちる木の下で、二月十五日の釈迦入寂の日に、この世の生を終えたい」
あのドラマを観てる人の中には、西行の元歌を知らない方もいるかもしれないが、それを知っているのと知らないとでは、感じ方も大きく違ってくるだろう。
そして更に、西行の願い「二月十五日の釈迦入寂の日に、この世の生を終えたい」も、自然への賛美と深い信仰心が一体となった西行ならではの作品であるということも、またこの歌に託した望みどおり、西行が2月16日にこの世を去った事実と、意知を待ち受けていた運命とが重なって、「死」というキーワードがあまりに重く心に響いてしまい、しばらく放心状態になってしまったのである。と同時にこれこそが、「文芸大河」の面目躍如の場面であった。
人は誰しも「死」から逃がれることは出来ないが、その日が訪れるまで「いかに生きるか」はそれぞれに委ねられるものである。
西行の桜の歌は、西行の肉体が滅びても永遠に語り継がれ、時を超え人の心を打ち続ける。同様に優れた芸術やその時代の名工が作りあげた作品なども須らく人間よりも長らえるもの。
そんなたくさんの芸術をこの目で観て感動したり、涙を流したり、喜んだり、笑ったり…この世のありとあらゆる喜怒哀楽を味わい尽くしたいと願うことが、わたしの密やかな野望なのかもしれない(^^)
そして確実なことは、「否定」からは何も生まれない。「ひたむきな気持ちと好奇心」だけがわたしの心を満たしてくれるのだ。
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