コピーライターの阿部広太郎さんは、ワークショップで“素直な感情を自覚するため“に
“「好きな人」と「嫌いな人」に名前をつけるワーク“をしているのだとか。
で、実際にコピーライターのワークショップで提出された名前がユーモアあふれていてどれもこれもとても面白い。
好きな人
「創造しい人」
→どんな時も創造することをやめない人「映画版ジャイアン」
→普段はちょっとなあ……と思っていてもいざという時、異常に頼りになる人「実家の毛布みたいな人」
→まるで毛布で包まれるように、とてつもなく安心感のある人「終日快晴」
→いつ会っても明るくてごきげんな人「嫌いな人の嫌いな人」
→合わない人の合わない人は、きっと嫌いが一緒で気が合う人
嫌いな人
「レディー・我々」
→私が! 私が! と我が強く、あまりにも主張が激しい人「揚げ足鳥太郎」
→良いところに目を向けず、人の揚げ足ばかりを取ろうとしてくる人「言い訳大臣」
→言い訳しているばかりか、ふんぞり返って偉そうな人「縁の下の太鼓持ち」
→縁の下で支えるというより、媚びへつらってばかりいる人「妖怪二枚舌」
→あっちこっちで人を欺くような都合の良いことばかり言っている人
『それ、勝手な決めつけかもよ?だれかの正解にしばられない「解釈」の練習』 より引用
自分の内面をのぞき込むように「好きな人」と「嫌いな人」を思い出していく。そして、心に浮かんだその人物像に名前をつける。これは、好きな人、嫌いな人の『実際の名前』を書かないというところが肝。
お題に取り組む時、まずは自分の感じたことを説明文として書き出すことがスタート地点となり、「名前をつける」という行為を通じて、自然と自分の感情を俯瞰して見ることができるのだ。
ちなみに、わたしの『好きな人』の名前は、
「なんでも馬太郎」
→何でも美味しそうに食べてくれる人。
『嫌いな人』は
「わたしゃ知らん外道」
→自分は常に安全地帯にいて何事も責任を持たずに他人事として捉える人
わたしは特に、阿部さんのお話で、嫌いな人の名前を考える時のことで、なるほどと思ったことがあった。
「嫌い」という感情の取りあつかいには気をつけたいと思います。このワークショップをやってみて感じたことがあります。
「粗探しをする人」「傲慢な人」「自慢話ばかりする人」など、ダイレクトな表現で「嫌い」を表現する人が多くいました。人は、好きよりも嫌いなことを言う方が饒舌になるし、歯止めがきかなくなるのだと思います。悪口で盛り上がることも、だれしも一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
だからこそ、オブラートに包むことを心がけたいのです。
それはつまり、ユーモアに包むということだと考えています。「ああ、なるほど!」と自分にも相手にも受け取りやすくしてあげる。というのも、「嫌いだ」というどす黒い感情は、放置しておくと炎症が広がっていくし、抱えていると支配されてしまいます。
棘をつくり心の中を転がり出してチクチクするし、考えたくもないのに気になってしまう。そういう時こそむしろ「嫌い」を見つめてみる。
確かにユーモアってどんなシチュエーションでも大事。
坊主憎けりゃ袈裟までもではないが、女って割と一旦こうと決めたら、とことん無理〜と思ってしまう意固地なところがある。そして、とことん、嫌なことばかり探してそこにフォーカスしてしまいがちだ。
しかし、一旦その“むき出しの感情“をユーモアという名のオブラートに包んでみたら、案外と美味しくいただけちゃうかもしれないのだ。
などと、大食漢ではないけれど、そこそこ美味しいもの好きなわたしは、“食べること“になぞらえて、「好きな人」や「嫌いな人」のことを考えてみた。
これはなかなか楽しい“言葉の遊び“だ。
と、そう言えば、先日園芸店で100円で入手した薔薇が次々と花を咲かせてきている。この花も蕾の時はオレンジ色なのに、咲き進むにつれ徐々にピンク色に花色を変えていく。
それから、今日はお客さんから頂いた薔薇の挿し穂から発根して、かなり大きくなってきたので、6号鉢から8号鉢に植え替えてみた。
ここまで来るのに半年以上掛かっただろうか。でも、ガーデニングをすることは、わたしの好きなことだから、雨の日も風の日も、寒い日も暑い日も、そのお世話が面倒くさいなんて一度も思ったことがないから不思議。きっとそれが『好き』ということなんだろう。
もしかすると、そんな『好き』をやり続けること自体、エゴなのかもしれないが、それで『あなたはわがままね』とディスられたとしても…そもそも人間なんてみんなそれぞれに、わがままな生き物なんじゃないかと思う。もちろん、“わたしゃ知らん外道“などといって、責任逃れするつもりは毛頭ない。
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