「嫌なら見るな」でいいのだろうか

かつて『嫌なら見るな』という言葉が一世を風靡したことがありました。今でも事あるごとにメディアやSNS上で何かが炎上するたびにこの言葉を使う人を見かけます。
しかし、これも一大ムーブメントを巻き起こした『一杯のかけそば』のごとく…すこし冷めた目でみると、ツッコミどころ満載の様相を呈しているようにも見えます。
『嫌なら見るな』…これを子どもの躾に当てはめてみたらどうでしょう。
もし子どもが勉強もせず、ゲームやスマホに熱中していたとして、『嫌なら仕方がない』と放置しておけますか?
もっと言ってしまうと『〇〇が嫌いなのでやらない』といわれて「はい、そうですか」と引き下がる親がどれだけいるでしょうか?
誰にだって苦手や好き嫌いはあります。そしてそこから多少なりとも誤解やストレスや不快感が生じるかもしれません。
だからこそあえてそこで思考停止に陥らない為にも、嫌なことから目をそらさないことも必要なのではないでしょうか。
百聞は一見にしかず
そして百聞は一見にしかずという諺があります。何事も判断するためには、見ないことには始まりません。
そのような人が本来持っている『知りたいという願望』や『懐疑的な考え方』を『嫌なら見るな』という乱暴な言葉で蓋をされたくはありません。
また『嫌なら見るな』という言葉を、立場上使うのがおかしい人もいます。
それはわたしたちのようにブログやSNS上で、『何かしらのコンテンツ』を不特定多数に公開している人です。
何かを公開するということは、肯定もあれば否定されることもあるでしょう。それが『公開するという自由』に対する『責任』でもあるとわたしは思います。
実際わたしがみているあるブログ上でも、自由に好き勝手な言動をしておきながらいざ問題点を指摘しようものなら、『責任は一切取りません』というスタンスの方もいらっしゃいます。
にもかかわらず「私は公開するけど、嫌なら見るな」というのは、かなり自分勝手ではないでしょうか。いっさい批判を受けたくないのであればコメント欄を閉じるなり、その相手をブロックすればいいだけのことです。
そもそもなぜその方々の記事に対して批判的になってしまうかと言えば、きちんと時系列をおって見ていくと、その方の書いた話の内容と時代背景が合っていないとか、日々親の介護をされている筈の方が、何日も旅行に出掛けたり、ママ友とランチやお買い物に出掛けたりと、本当に介護で苦労されている方からするととても真実とは思えないような日常を綴っているからです。
それは本当に親の介護で生き地獄を味わっている人に対する冒涜にも等しい行為と受け取られてもおかしくありません。
そしてその方が「わたし子育ても介護も家事も頑張ってまーす」とお気楽に言ってしまうことで、介護の現実から目を背けてしまう方々もいるかもしれません。
なぜなら、そんななんちゃって介護をしていると気づいていても、ほとんどの人は見て見ぬふりをしているからです。
結局現実に介護に関わった人でなければ、分からないことがほとんどで、どんなに綺麗事を並べたとしても、ほとんどの人は内心「嫌なら見なければいい」と思っているのです。
それからもう1点、特にブロサー内のコンテンツで目につくことなのですが、他の方のアイデアや表現を、さも自分のオリジナルのように掲載したり、自身はランキングバナーを貼っているのに、相手の応援はしないなど、モラルの低い方々も大勢いらっしゃいます。なのにそんな方に限って、さも常識人であるかのような発言をされたりと…本当にこの世は魑魅魍魎のごとき人々ほどよく眠るという思いがするばかりなのです。
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