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【数日咲き続ける】ハイビスカス・ケイト 初夏から秋まで長く咲く花

コストコの帰り、中央林間のオオゼキに寄った。その向かい側に小さな園芸店があり、品揃えはそれほどでもないのだが、季節の花苗が安くて品質のいいものが取り揃えられている。

今わが家の庭は、古くからの樹木を伐採したり重機が入ったりしているので本来なら花苗をお迎えする余裕はないのだが…今まで見たことのない色のハイビスカスを見つけてしまったので、つい手に取ってしまった(^_^;)

ハイビスカス・ケイト

それを見たママ友、ハイビスカスの鉢をたくさん持っているお友達がいるので、いろいろな種類の花を目にしてきたけれど、この色は見たことがないと言って褒めてくれた(笑)

一般的なハイビスカスの大きな特徴のひとつは、1日花であること。それに対して、このハイビスカス・ケイトは、新しく育種されたNEWロングライフ・シリーズのハイビスカスの一品種で、ひとつひとつの花が数日咲き続けるのが特徴だ。

NEWロングライフ・シリーズのハイビスカスの中でも、花の大きさや咲き方でいくつかタイプがあり、ケイトはコンパクトタイプ。3~4日の花持ちで、草姿がコンパクト。耐陰性も改良され、日当たりがあまり良くない場所や室内の窓辺でも次々と花芽をつける特徴がある。

花苗の品種改良は日進月歩で、同じ種類の花でも強健で優秀、花や草姿が美しい品種が続々と登場する。なので今ある花苗も大切に育てると同時に、今まで見たこともない品種を探すことも楽しみのひとつになっている。

ところで、少し前にこんなブログの記事の一節が目に止まった。

『正義は最大の娯楽である』
バカと無知 ‘’人間 この不都合な生きもの‘’ 橘 玲著 より
『わたしたちはつねに「自分は正しい」という前提で生きている』

だからこそ
自分の正義だけを振りかざし
誰かの書き言葉、発言だけから‘’全て‘’を批判したり
レッテルを貼りつけないよう
正義の行進リズムからちょっとズレたり
そんなこともあるさ と
休符を打ってみる

これは、最近わたしがブログで描いていることに苦言を呈されているのだなとすぐに分かった。

この方に限ったことではないが、わたしが誰かの記事やコメントに対して、批判をしたり苦言を呈したりすることを良しとしない人は多い。

だがわたしは、“自分なりの正義や正論を振りかざして何が悪いの?“と思う。

少なくとも、今までわたしが取り上げた人の言動は、わたしの知っている常識からみれば、“常軌を逸した事柄“ばかりであった。

「我思う、故に我あり」という言葉で知られるデカルトは、常識や先入観をすべて疑う方法的懐疑という手法によって、世の中はすべて嘘や間違いとしたうえで本当に正しいものを考えようとした。しかし、すべてを疑い、すべてを確かめるのは膨大な作業になり、実際には難しい。そしてまた、人は何も信じずに生きていくことも出来ない。

そこで、彼は“仮の道徳”という考え方を提唱し、『今あるものを当座のもの、仮のものとして受け入れることが重要だ』とした。“仮の道徳”で生きていくと同時に、本当のことを知る努力を続ける。この二本立てでなければ、人は哲学的に生きていくことはできないと考えたのだ。

しかし現代を生きるわたしは…すべてを疑うだけではニヒリズムになってしまい、何も進まず、人として生きていけないので、常に“仮“という意識を持ちながら、一方で探究し続けることを止めないというスタンスでいたいと思っている。

わたしが、“探求し続ける“過程で出会った“違和感のあるセンテンス“の数々…それを検証していく中でどうしても受け入れ難かった部分を、抜き出して、それをわたしの好むところではないと…自らのブログで吐露することを『誰かの書き言葉、発言だけから‘’全て‘’を批判したり レッテルを貼りつけること』であると『断定的に仰ること』もまた、その方の“正義“若しくは“価値観“の押し付けなのではないのか。

そもそも、このブロサーの方々は、いいね!や応援を通して、自らのブログがひとりでも多くの人の目に触れることを目的としている人が大半なのではないか。つまりこの閉ざされた空間の中では、何が正しいとか正しくないということよりも、“人気者や声の大きい人の言動が正義“であり、それに懐疑的なことを言おうものなら徹底的に叩いて疎外する。

これは、いま社会問題となっている“イジメの構造“そのものだ。

そしてもう少しかみ砕いていうと、『女王様の意見に逆らう者は、“悪口をいう嫌な奴“というレッテルを貼り付けて袋叩きにしてもいい』という暗黙のルールでもあるんじゃないかとさえ思う(笑)

先月の下旬、旭川空港からレンタカーで留萌に向かう道すがら、国鉄神居古潭駅跡という処に立ち寄った。

ここは、函館本線の駅として1969年(昭和44年)に廃止された。現在は、駅舎が復元され、サイクリングロードの休憩所として利用されている。

また、駅舎の近くには蒸気機関車が展示されており、鉄道ファンや観光客に人気のスポットとなっている。

で、この場所の名前を聞いて、あれ?と思った人もいるのではないかと思う。この駅舎に向かう途中にある吊り橋。

とても緑豊かで美しい景色が広がっているのだが…

神居大橋

ここは、ある殺人事件の現場となった。

2024年4月18日夜、21歳の女Aは、知人の19歳の女B・16歳の少年C・16歳の女Dの3人を交代で同乗させ、北海道留萌市の17歳の女子高校生(E)を車に乗せて監禁し連れ回し、複数回に渡り殴る蹴るなどの暴行を加えた。

加害者らが旭川市内のコンビニに寄った隙に、Eが降車し大声を出しながら逃げようとしたが、加害者らはEに暴行を加えて車内に連れ戻した。また、逮捕後のAの供述によれば、コンビニ店員に助けを求めた際にも「この子はおかしくなっているので、取り合わなくていい」などと言って誤魔化した。

翌19日未明にC・Dと別れ、Aらは旭川市の神居古潭到着。AとBは、そこにある神居大橋でEを全裸にさせた上、土下座させたり、欄干に座らせたりする様子を動画で撮影し、「落ちろ」「死ねや」などと言って川に落とし殺害した。

5月21日、Eの遺体が橋から約60Km下流の奈井江町の石狩川川岸で発見された。また、Eのスマホは現場から離れた旭川市内の川で壊された状態で発見されている。

              Wikipediaより

被害に遭われた女子高生の方の痛みや苦しみを想像するだけで胸が痛くなる。と同時に、こんな美しい場所で人の命が奪われてしまうとは…犯人たちは、人の命を蔑ろにしただけでなく、この美しい名勝までも穢した。わたしは亡くなられた方のことは全く存じ上げないが、ひとりの子を持つ親として、人間として、犯人たちがなぜ罪を犯したかとか、如何なる理由があったとしても、それを理解しようとは微塵も思わない。

なぜなら、人の命を奪うことは、どんなに価値観が変わろうと許されないことだから。

と同時に、この事件の現場となった神居古潭に忌まわしい記憶を刻んでしまったことも、神社仏閣のような神聖な場所を侵してしまったコトと同等の罪深さを感じてしまう。

そしてこの事件が起きた発端は犯人Aが取り巻きの少年たちを手なづけ、自分の意のままに操っていたという背景があったのだろう。

最初は単なる馴れ合いの関係にすぎなかったとしても、結果的に殺人にまで発展するようなコトだってある。

だからわたしは、たとえひとりになったとしても、嫌なことは嫌と言える自分でありたい。

もしそれが、“自分だけの正義を振りかざすなんて…黙れ“と言われてもだ。

少なくとも、このブロサーに女王さまとかご意見番とか、そんな絶対的な存在は“要らない“と思っている。

そして、パクチーやウィスキーは要らない子ではないし、異論も認めない(笑)

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

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