『高見え』という言葉が苦手
わたしは、ファッション用語の『高見え』という言葉があまり好きではない。
誰しも少なからず自分の元々の価値以上に見せたい心理が働くのは分からなくもないが、そこに「実際よりも高価に見える」という極めて俗物的な意図が見えるにも関わらず、いかにも小綺麗に言ってやろうとして全く言えていないところが、却ってその俗物性を際立たせるからだ。
これ、『若作り』みたいな言葉と少し似ている。もしこれを他人に言われたら、きっとネガティブな感情が働いてしまうだろう。
「高級感のある」と「高く見せてる」って似ているようで、全然違う。
若い頃ならいざ知らず、ある程度年齢を重ねてくると、いわゆる今流行りのファストファッションの服は、一見高価に「見える」ものがあっても、結局これはそれなりの価値でしかないことは身につけたり、使ってみるとすぐに分かってしまう。
そして節約すると言って「高見え」する服をたくさん買ってしまったら、結局「高い服」を1着買えば良かったということになるだろう。
最終的にその人が使ったり身につけるモノは、その人自身によって見え方が決まってくると思うので、誰かが決めた『高見え』アイテムに乗っかって課金するってのも実はそれほど効率が良いとも思えない。
たとえば綾瀬はるかが着るUNIQLOの服はカッコよく見えるけれど、そんな彼女と似ても似つかない容姿のおばさんが同じ服を着たところで、綾瀬はるかになれる訳ではないことは自明のこと。
ならばそのアイテムを買う為に働いていた時間とお金を、運動する時間とジム代に振り替えた方が、よほど効率的なのでは?と思ってしまう。
わたしは今、ほぼ専業主婦なので、ジム代を払うのも勿体無い気がするので、専ら庭木の手入れに時間を割いている。そして、人に会う機会も極端に減ったので高見えではなく、本当に着心地がよく、長く飽きのこないデザインの服を少しずつ買い揃えるようにしている。
そういえば先日、ダイソーで購入したパキラを少し大きめの鉢に植え替えたが、少なくともあの鉢はダイソーで買えるプチプラ商品ではない。
園芸を初めてまだ日の浅いわたしだが、最終的に、鉢はテラコッタやルーツポーチに行きつくと感じている。
何かというとじいは、100均でプラ鉢を買ってきたがるが、プラ鉢は軽くて扱いやすい反面、通気性に難があり、根腐れしやすいという、草花にとってあまりよろしくない環境に陥りやすい。
植物も人間も同じで、身につけるものは、ナチュラルな素材が心地よく、そのカラダを丈夫で健康に保つのだ。
『高見え』の先にみえるもの
高見え=実際は廉価だが、一見すると高価に見えるモノ。
わたしは今、毎日ひとの目を意識しなければいけない訳でもなく、華やかな生活ぶりを自慢したい承認欲求もない。
強いていうなら、自分が心地よくストレスを感じない生活を送れたらいいと思っているので、そもそも高見えする必要などないのだ。
高見え…この心をもう少し深掘りしていくと、自己肯定感に繋がっていくのかな。
今の時代、何かと自己肯定感を高めることばかり良しとされるが、果たしてそうだろうか。わたしはむしろ、人は自分自身の身の程を適切にわきまえることのほうが大切だと思う。
人は人。自分は自分。
自己肯定感を高めたいと思う時点で、誰かを踏み台にして自分が価値ある存在だと思いたい心が透けて見える気がしてくる。
所詮世の中、上を見ればキリがないし、下を見てもキリがないのだから、そういう『ミエ』の張り合いからは早々に脱却したいものだ。
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