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上には上が

娘(次女)の彼氏、、、この方中華系の人らしいのですが、めちゃくちゃ凄い人なんですよ。何が凄いってその語学力。娘はしばらく彼から言われるまで普通に日本人だと思っていたらしい。この難しい日本語をネイティブ並みに操るって相当凄いと思う。

ちょうど娘が金融コンサル系の会社に就職したばかりでFP2級を取ろうとしていた時、テキストをさくっと読んで理解して娘に分かり易く教えてくれたなんてこともあった。

当時彼は東大の院生だったらしいが、優秀な頭脳に掛かれば、なんでも読みこなせてしまうのだろうと感心しきり。

わたしなどは、だんだんと日本語も怪しくなってきているし、英語もとても流暢といえるレベルでもないから、英語が堪能なんて聞くだけでもへぇと思ってしまうけれど、彼は、中国語(北京語)、英語、日本語がネイティブレベル、日常会話に困らないレベルなら、ドイツ語やフランス語も問題なく使えるらしいので、もうただただ驚くばかり。

でもだからといって俺様なタイプでもなさそうで、いつも娘のことを第一に考えてくれているところが素敵だなあと思う。

こんな人の話を聞くといつも思うことは、世の中って “上には上がある“ってこと。

実るほど頭を垂れる稲穂かなという諺があるくらい、知的レベルが高ければ高いほど、その社会的地位や肩書きには無頓着な人が多いイメージがある。

よく自分や家族の自慢話をして、他人を見下したような態度を取る人がいるが、残念ながら、わたしからすると、そういう人は、視野の狭い可哀想な人にしか映らない。


つい先日、NHKの歴史探偵という番組で千利休の切腹の謎にまつわるエピソードが検証されていた。わたしも以前少しだけお茶を嗜んだことがあり、茶の湯の歴史はある程度把握していたが、改めて利休が茶の湯にもたらした革命について考えさせられた。

利休以前の茶の湯は、主に中国由来の豪華で煌びやかな茶器をメインにとりおこなわれていた。

しかし利休以降は、むしろそういった華美なものではなく、身近にある日用品などから花器などのしつらえ、ロクロで作られた茶碗ではなく、手に馴染むように土を手で捏ねて造られた茶器が用いられるようになっていった。

秀吉の黄金の茶室と対極と言っても過言ではない妙喜庵 待庵(千利休が設えた現存する唯一の茶室)。

最初にこの茶室がつくられたのは、天下分け目の天王山の合戦が起こった戦国時代。利休の弟子だった[妙喜庵]三世・功叔和尚は、茶会の際に手伝いをしていた縁もあり、江戸時代になり、この地に移築されたという。

この「待庵」の前に立ち、まず驚かされるのは知足を感じる空間づくり。茶室の広さは四畳半が規範となっているが、こちらはわずか二畳。

妙喜庵 待庵

目の前のひとりのために、心を尽くしてお茶を点てる。戦乱を生きる客人が周囲を気にせず心おきなく話せる。きっと利休はそんな空間を作りたかったのだ。

茶室へはにじり口という小さな(縦横60cm程度)入口から体をかがめて入るようになっている。

その理由は身分の違う人でも茶室の中では平等という考えから、武士でさえも頭を低くして入るようになっているのだとか。かつてはにじり口の上に刀掛けがあり、刀を外して入るようになっていたとか。

今もって利休がなぜ秀吉に切腹を命じられたのか謎であるが、ただこうやって利休の茶室のしつらえをみるだけでも、時の権力者にとっては、“茶室の中では皆平等“なんて思想はどう考えても都合が悪いものだったことだけはわかる。

今よりもっと封建的な時代に、利休がたったひとりで貫いた茶道という美学。こんな途方もない人の足跡を辿っていくと、自然と“上には上がある“という思いに頭を押さえつけられたような気持ちになる。

最高にすぐれていると思っても、さらにすぐれたものがある。 うぬぼれや欲望に心を支配された人は、いま以上美しい景色をみることは出来ない。

ちなみに、“上には上がある“を英語で表現すると、

There may be blue and better blue.

直訳すると、”青もあればより優れた青もある”。

昨日より今日、今日より明日。誰の顔色を伺うことなく、今の自分に勝ちたいと願う。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

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