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行き詰まったとき

ただ生きているだけでも本当に日々いろいろなことがあります。

ぶっちゃけるとウチの場合、普通の犬も喰えないような夫婦喧嘩の域を超えています。

Dの母親は関西出身で所謂いいところのお嬢さんでした。東北出身のわたしから見るとやはり関西出身の方は良くも悪くもお金にシビアな方が多いなと思います。

Dはそんな母親に育てられたこともあり非常に倹約家です。

結婚して一番最初に笑ってしまったのが、膝が抜けて履けなくなったジャージの紐を纏めてとっておいたのを見た時です。

わたしが「これ何に使うの?」と尋ねると「何かに使えそうだからとっておくんだ」と言われましたが、今まで一度も使った場面を見たことはありません。

先日も横浜の紀伊國屋で、のどぐろの丸干しを3連980円で買って食べたとき、「これはのどぐろだよ」と言ったら「いくらするんだ?」と聞かれたので「3尾で980円(税込)だよ」と答えたら「えーそんなに高いのか?1尾300円ってことだろ?」「あのさーのどぐろって知ってるよね?」「あの高級魚だろ」

わたしは、あののどぐろを多少小ぶりとは言え1尾300円で食べられたなら味も良かったので大満足だったのですが、Dのその非難めいた言葉を聞いて一気に心が萎んでしまいました。

とにかくDと同じ空間にいるだけで嫌な思いをすることが多いです。

パスタを音をたてて啜ったり、今は指が荒れているのであえて大皿で盛って少しでも食器を洗う負担を減らそうとしていてトングをつけたにもかかわらず直箸しようとします。

そしてそれらのマナー違反を指摘すると「いいんだよ」とまるで敵のような剣幕で否定されるのです。

そして二言目には「何不自由ない暮らしをさせてやっているのに何が不満なんだ」と言います。

何不自由ない暮らしって何でしょう?

きっとDが思う何不自由ない暮らしとは、その日の暮らしに事欠かなければいいということと同義なのでしょう。

それっておそらく戦時中、彼の母親の苦労話を聞かされて育った価値観をそのまま受け継いだのでしょう。

そしてわたしが何をしても「ありがとう」が言えません。それに対してわたしが少しでも不満を口にしようものなら「家族なんだから出来る奴がするのが当たり前だろう」

しかし先月のわたしの手術の時、モルヒネを打つ関係上、貴重品を預かる家族が必要ということを伝えると「その時間仕事なんだよね」と言われたので仕方なく息子に付き添いをお願いしたなんてこともありました。

退院時はもっと酷くて彼の障害者施設に入所している妹の月に一度の保護者会があるということで気をきかせた友人がお迎えをかって出てくれたぐらいです。

そして退院直後の食事の支度も全てわたし自身でやらなければならず、それどころか時間になれば「飯はまだか?」

そんな状況で孫を連れてきた娘もただ遊びに来ただけで何もしてくれませんでした。

それがその後彼女のお気に召さなかったようで「わたしが来たことを迷惑と思ったでしょう。すいませんね。使えない娘で」と罵られました。

ちなみにこの発言をしたのはわたしではなく娘自身です。その時わたしは術後の痛みでただ部屋に閉じこもっていただけです。

たとえ親子でも言っていいことと悪いことがあります。

娘には、「お父さんには本当に感謝しているけれど、あなたには事あるごとに暴言を吐かれ傷つけられていたので、何をされても迷惑です」と言われました。

そして「またこれをブログに書くんでしょ」と。

もう言葉もありません。Dと長女は完全にこの家の人間です。ちなみにDが貸金庫に預けている貴重品の暗証番号を知っているのは長女だけです。

また自分に都合のいいことだけ書いていると言われたらそれまでですが、今書いていることは全て事実だけなので、これを読んだみなさまにこう感じてほしいとか、わたしは誘導しようとも強制しようとも全く思っていません。

今は亡き姑ですがお嬢さまですから、お茶やお花やお琴や三味線、長唄などありとあらゆるお稽古事を極めそれぞれ師範の資格も持っていると聞かされていました。

近所のピアノ教室から聴こえる音色を聴けば「あれはただのお嬢さん芸ね」とサラッと言ってのけます。

それでいて「わたしほど優しい姑はいない。あなたなんて普通の家では務まらないわよ」と何度言われたことでしょう。

まあそんな姑とDと3人の子育てをして、年末年始に施設から帰って来る義理の妹を腫れ物に触るように接しなければいけませんでした。

お正月には親戚の家に挨拶まわりどころかいつ徘徊して出て行ってしまうか分からない妹を気にしながら食事の支度などしなければいけませんでした。


それと比べたら今の娘の立場なんて緩いものです。同居でもなく旦那さんは優しいし、それなりに子育てにも協力してくれています。そして何より何か困れば頼る実家があるのですから。

それをたまたま1人目の子供が発達障害の疑いがかかる状態だったとして、もっと重度の障害を持った妹と比べたらまだ今のうちに対処すればなんとかなるレベルなのは明白なのです。それをその元凶がわたしにあるなどといった被害妄想を繰り広げる暇があるなら、最低限生きていくことに必要な躾をしてあげてくださいと言いたいです。

この子は何度言っても聞く耳を持たないからと言うけれど、それでもへこたれず時には鬼と思われようとも、しつこいくらい繰り返せばある程度のことは出来るようになります。

もちろん虐待はいけません。でもそれもそれを受け止める子供によってどこからが虐待でどこからが虐待でないかなんて変わってくると思います。

そして子供の気持ちの尊重と言っても、それは3歳になるまでにある程度躾をされ人格の土台となる部分が出来てからの話です。

「あなたは障害者や社会的弱者を見下している」と言われました。

その指摘はある意味正しいかもしれませんが、では逆に言って本当に心からそういう人々を健常者や一般の納税者などと同等と思っている人がどれほどいるというのでしょう。

それよりも「この子は発達障害気味だから出来ないのは当たり前」と勝手なレッテルを貼るほうがよほどその子を見下していることになりませんか?

「わんことわたしの子供を比較された」と憤っていましたが、それも人間の子供のほうがわんこより優れているという人間の思いあがりではありませんか?

まあこんなことを言ってもおそらく聞く耳を持つことがないことはわかっています。

今や長女はDと同等くらいの立ち位置でわたしを家政婦のようにしか思っていないと思うので。


さて最後に15日の米国市場は、FOMCがテーパーリングを2倍に加速、22年の利上げを3回と発表したことを受け、取り立ててサプライズがなかったことで買い安心感が広がり一気に上昇に転じました。

今回の状況をみて、わたしはこんな株の格言を思い出しました。

Bull markets are born on pessimism, grow on skepticism, mature on optimism and die on euphoria.

(強気相場は悲観の中で生まれ、懐疑の中で育ち、楽観の中で成熟し、陶酔の中で消えていく)

これって株の世界の話だけではないような気がします。

今わたしはあらゆる面で問題が山積している状態ですが、そんな悲観的な状況であっても一夜にして含み損の半分をリカバリし更に追加で少しだけ買い増しすることも出来ました。

捨てる神あれば拾う神もいます。一見絶望的な状況であっても諦めなければきっと道は開けると自分に言い聞かせています。

そして逆に楽観的な状況になったら「勝って兜の尾を締めよ」の心を忘れないようにしようと思います。

そしてこんなわたしのいい時も悪い時も、ある意味本当の身内よりも気遣ってくれる友人たちに感謝したいです。

何が一番大切かといえば、夫婦親子そして自分に関わる全ての人に感謝する心を持つことだと思います。

しかし逆にいえばいつも何かしてもらうだけの人にはもはやそれは当たり前のことになっているので感謝の気持ちなどわいてこないのかなとも思います。

わたしは誰かに何かを期待するのではなく自ら手を差しのべる側に立ちたい。そうすればきっとどんな小さな出来事であっても感謝せずにはいられなくなると思っているのです。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

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