このところ長女が人間関係で悩んでいたらしく、、、こちらも仕事で疲れているにもかかわらずLINEでいろいろと連絡してきていた。
その中で自分が話したことなどを読み返してみると、娘に言ったつもりで実は自分に対する戒めのようにも聞こえる言葉が多々あることに気づいた。
そう、、、言わぬが花だよと言った。あ、似たような言葉で、世阿弥が風姿花伝で語った名言’秘すれば花’がある。
日々ブログで自分のありのままのこころを書いている立場からすると、ある意味真逆の境地である。
そもそも秘すれば花とはなんぞや。
秘めるからこそ花になる。秘めねば花の価値は失せてしまうというような意味になるのか。ここでいう花とはさまざまなものに置き換えることが出来る。
話は少し脱線するが、世阿弥は幼名を鬼夜叉といい、若い頃は大層美しい容姿だったと言われている。
彼がのちに風姿花伝という芸術論を書き残したのも、そういった自分自身の花の移り変わりを通して感じることが多かったからなのかもしれない。
先日小田原方面の河津桜の映像を見かけたが、とても美しかった。しかし、桜の美しさも永遠ではなく、、、むしろ散るからこそ美しいとも言える。
そんなことをあげていくと、、、今この世の中の方向性は秘すれば花とはまるで違う。
ぶっちゃけ、晒した者勝ちみたいなところがあるよなーなんて、自分自身にも耳の痛い思いがしたのである。
初心忘るべからずも、世阿弥さまのお言葉である。
普通使われている意味としては、何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならないというふうになるが、元々世阿弥さまが言っている「初心」は「初心者」の初心のこと。
つまり、まだ未熟な状態のことをさしていて、「なにかを始めたときの下手だった記憶や、そのときに味わったくやしい気持ちや恥ずかしさ、そこから今にいたるまでのたくさんの努力を忘れてはダメですよ」という意味なのだ。
さらに世阿弥さまは、過去の未熟な状態だけを思うのではなく、今の自分も「未熟」な状態であると自覚しなさいともいっている。
600年前の方の言葉がこれほど深く心に突き刺さるなんて、、、人間は進化しているようで実はそれほど本質は変わっていないのかしら?なんてはっとさせられる。
そういえば、まだわたしは本格的な能舞台を見たことがなかった。
能という芸術もまた、顔芸流行りの今とは対極の位置にある芸能である。
こんなことを思いつくと、また次の新しいテーマが浮かび上がってきたよう気待ちがして、気分があがってきた。
そういえば、もうすぐお茶のお稽古もあるし、自分の内なる声なのかはたまた神さまのお告げか、、、大いに励めと背中を押されているような気がしてきた。

コメント