尊厳死?安楽死?そして生きる権利

このところ公私に渡って生きるということについて考えさせられるような出来事が起きている。

先日、嘱託殺人で逮捕された医師2人のことが報じられた。

殺人が悪であることは間違いない。

しかし、亡くなったのは51歳になるALS患者の方だという。しかも、その方は元々とても行動的な方で学生時代から友人と海外旅行に出掛けるようなとても前向きな生き方をしていらしたようだ。

今、私は彼女と同じ年齢で、趣味も似通っているようで勝手だがとても親近感を覚えてしまった。

もし私が、ある日突然、彼女と同じ病気だと宣告されたらどう考えるだろうと。

ちょうどこの前、職場仲間と家飲みしながらそんな話をしていたばかりだった。

彼女は、ホームいる利用者で、統合失調症を患っている人のことについて触れ、この方は一生この病気と付き合っていかなければいけないと感じたらなんだかやりきれない気持ちになったと言っていた。

今回の事件も、最初に異変を察知したのはヘルパーさんだった。ALSの患者さんは、24時間の完全看護体制がなければ1日として生き続けることは出来ないのだ。

そして、彼女の最期を看取ったのは、おそらく家族ではなくヘルパーさんだったという現実。

人はどういうカタチであれ最後は必ず死ぬ。

高齢のお父さんは、娘の本心を知らされることもなく、娘が亡くなって初めてそのこころを知ったという。

こう言った一連の出来事を繋ぎ合わせて考えてみると、この嘱託殺人?はただの殺人と片付けていい話ではないと思った。

誰しも家族が亡くなることは受け入れ難いことだろう。しかし、日々完全な看護や介護が必要な家族がいて、それを家族だからという理由だけで一生向き合わなければいけないと世間から無言の圧力を掛けられるのも酷な話だ。

先日私も、自分の命の期限を知る時計があればいいのにと思ったりしたけれど、終わりが見えたら頑張れるかもしれないが、終わりが見えない戦いを強いられることは無限地獄にも等しいのではないか。そんなことを思った。

今のコロナ禍も同じような矛盾を抱えている。

不要不急の外出は感染のリスクを高める。しかし現実問題としては人は働かなければ生きていけない。

みんなが働かず、生活保護を受けるしかなくなったとしたら、国の財政は破綻する。

と同時に、地方になればなるほど厳しい同調圧力が求められる。本来なら喜ばしいことなのに、岩手の方々は、感染者1号になりたくない恐怖に怯えている。

旅行する人も、、、中には本当に地方の観光の為にと動いている方もいらっしゃると思う中、、、ネットではまるで非国民のように非難されている方もいる。

与論島のクラスター、その関係者と思われる方へのバッシングも相当なものがあるだろう。

でも、少しピントをずらして考えてみれば、仮にコロナに感染したとしても、もう本当にこの世から消えてなくなりたいと思うくらいの状況に陥る人がどれだけいるのだろう。

軽く考えてはいけない。しかしと同時に、ことコロナに関してはまだ希望がある話ではないのか?

それよりも、不幸にもコロナに感染してしまった人たちに向かって更に追い討ちをかけるような過度なバッシングのほうがよほど虐めではないのか?

ALSの方が何故苦しいかと言えば、肉体的な痛みというよりも、眼球を動かすことしか出来ない状況でパソコンで文字を入力するなど、明瞭な意識を持つにもかかわらず何も自分でなすことも出来ない計り知れないプレッシャーの檻の中に閉じ込められていることだ。

それを短絡的に生きる権利と結びつけるのは違う気がする。

もちろん、同じ病気の方で希望を持って強く生きたいと願う方もいらっしゃるだろう。

しかし、頑張れる方もいるが、頑張れない方もいる。

真の平等とは、他害な願望は別にして、出来るだけ自分の願望が叶えられる社会を作っていくことから始まるのではないだろうか。

生きるべきか、死ぬべきか。悩んで悩んで悩み抜いてどうしても、死にたくなったら、それがどう考えても妥当と思えるなら、尊厳死や安楽死はあってもいいのではないか。

私はいつも思っている。自分がもし介護される立場になって、家族を苦しめるくらいなら、、、そして、例えば、介護施設に入ったとしても、結局ヘルパーさんにお世話になるなら、その人にストレスを肩代わりしてもらうことと一緒だと思うから、出来れば安楽死が合法化されるような時代が来ればいいと思っている。

まあ、この日本ではそれは難しいとは思う。何故なら、誰も責任を取りたくないから、第1号になって叩かれたくないから。

幸せってなんだっけ、なんだっけと、昔、明石家さんまがCMで唄ってたけれど、それを観ていた若かりし頃の自分に戻れるものなら戻ってみたい。

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